熊本酒歴史

清流球磨川

人吉城址

球磨焼酎

穏やかな緑の山々に囲まれたこの球磨盆地は、古くから「山紫水明の地」「九州の小京都」などと称賛されてきました。こうした賞辞はいささかの誇張でもなく、美しい山々は清らかで豊富な水を生み出し、その水は広い穀倉地帯を養って豊かな作物を育ててきたのでした。

このように恵まれた自然環境であるが故に、すでに旧石器時代から人が住み始め、縄文時代の遺跡は数百か所にも及んでいます。さらに稲作も行われる弥生時代、大きな墳墓を造る古墳時代になりますと、この地は国内でも第一級の文化を持つに至りました。『日本書紀』に「熊の県(くまのあがた)」という地名で出ていますが、球磨のことを指していると言われています。
そこを大和朝廷から後の景行天皇が征服にやって来ました。そして熊の県を治めていた熊津彦兄弟を討ち取るのですが、その道具立てにはどうやら酒が。つまり酔わせたうえでの、だまし討ちだったのです。それでは私たちも、その当時のお酒に一献付き合ってみようではありませんか。

この頃の酒は「口咬みの酒」と申しました。甑(こしき)で蒸した飯を人が咬み、それを壺に移して発酵させるのです。「えれー、きったなか」などの心配はご無用。咬むのは、専ら清純な乙女たちだったのですから。おそらく錦町一武の「下り山須恵窯」で焼かれた須恵器で熟成されたのでしょう。なんとも芳醇な美酒、もう一杯。
球磨盆地で、こうした酒が飲まれていた時期にはすでに久米氏・秦(はた)氏・須恵氏・平川氏・合志氏などの古代豪族がそれぞれの地域を治め、人吉のあたりは、平家の息のかかった京都蓮華王院(三十三間堂)の荘園になっておりました。

やがて鎌倉幕府の世となり、静岡から相良氏が新しい領主となって、この地に入ってきました。相良氏は、豊臣秀吉の九州平定以降、現在の球磨盆地に引っ込んでしまいましたが、それ以前の領土や勢力はまことに広大なものでした。ことに室町時代には八代や葦北等の港を拠点として、海外貿易も盛んにやっていたのです。その交易範囲は琉球から、揚子江沿岸にまで及んでおりました。
さらに天草や長崎の地で、南蛮人との交流も行われるようになりますと「アラキチンダの酒」をはじめ、いろんな酒類が球磨盆地にも入って来はじめます。そうした中に、飛び上がるほど度のきつい一本がありました。そうなると、ここでも一杯付き合ってみたくなるのが人情、「どーら、俺ぇも飲ませてみない。ぜーして、ベロの焼きしぎゅててしたばい」。それは諸白(もろじろ)などという濁酒や、それを搾った清酒しか飲んでこなかった球磨人の口にはまさに“猛毒”でした。
その猛毒こそ焼酎でしたが。球磨盆地の人々はたちまち焼酎の虜になってしまいました。なにしろベトつかず、飲み口が爽やかです。それに製造業者も、蒸留という手間はかかりますが、出来上がったら清酒のように腐ることがなく、置けば置くほど品質が向上するではありませんか。
この焼酎の製法は、当時相良氏の支配下にあった薩摩大口方面にも伝わりました。今の薩摩焼酎の原料は唐芋ですが、当時はまだサツマイモは日本に伝わっていませんでしたので、当然米製だったのでしょう。

ところで大口市の北に「郡山八幡」というお宮があります。国指定の重要文化財ですが、そこの解体修理中とんでもない板ぎれが出てきました。年月を経て薄くなった墨書を読んでみたところ、「永禄二歳八月十三日 作次郎 鶴田助太郎 其時座主ハ大キナこすてをちゃりて一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉」と書いてあったのです。あろうことか大工さんたちが、焼酎の一杯も飲ませてくれない神主に対して、グドついての落書だったのです。永禄二歳は、西暦一五五九年ですので約四百五十年も前のこと。
しかも面白いことに、この落書こそが現在のところ日本で最も古い「焼酎」という文言。なんとも愉快な話ではありませんか。郡山八幡にお参りの折には、ぜひ二人の大工さんに「どーら、一ぴゃ上げもそう」と杯を献上したいものです。
お宮の修理といえば、こちらの青井神社も負けてはおりません。時は少々降りますが江戸時代の宝歴八(一七五八)年四月十四日付け、工事終了の記録に「毎日毎日、気付け酒、生酒壱人前に五盃づつ被下候 四月七日ニハ殿様より酒百盃 大魚ハヤ五拾 豆腐八合 右之品被下候間昼八ツ時分より云々」とあります。毎日存分に飲ませたうえ、打ち上げは午後二時から酒も肴も山と積んでのどんちゃんさわぎ、しかもお殿様のおごりで。どこかの神主どんなどとは、大違いですなァ。
勿論、この豊かな球磨盆地でも長雨大風虫入りなどによる凶作に襲われたことも少なくありませんでした。こうした際には百姓や町人ばかりでなく武士も、厳しい倹約を強いられました。そして焼酎の醸造も禁止されましたが、少しゆとりができると直ぐに解禁となりました。
藩政時代には、酒焼酎の自家製も半ば公認でした。しかし販売は自由にはできず醸造株を持つことが必要で、人吉城下やその近郷在住者に与えられていました。また、城下以外の者には「入立茶屋」の名称で免状がおろされました。もちろん、醸造株を得るためには、藩の財政に対する並々ならぬ貢献が必要であったわけです。

さて明治八年の『肥後国求麻郡村誌』によりますと、この地方での焼酎生産高は五百五十五石。清酒が九百九石となっていて、清酒が上回っています。この傾向は明治の終わり頃まで続いたようですが、その後忽然と清酒はこの地から姿を消してしまいました。まさにミステリーですが、どうやらその陰には新しいコウジ菌の姿が。
かくて現在、減圧醸造などの新しい技術も取り入れ、ついには地理的表示を保護する法律により「球磨焼酎」は、国際的にも通用する銘酒としてさらなる発展を続けているのです。なんとも、末頼もしい話ではありませんか。
それでは、このへんで打ち上げといきましょう。かんぱーい。

前田 一洋

前田一洋 プロフィール
1936年 人吉市生れ。
人吉高校・熊本大学教育学部卒。
球磨・人吉・八代郡市・熊本市の学校、
熊本県文化課などに勤務。
現在、泉村誌編纂委員

■著書
『球磨弁まっ出し』『球磨弁珍語録』
『球磨円弁詩集迫ん太郎』『相良村誌』ほか。

■出演テレビ・ラジオ
NHKテレビ「方言を味わう」
KKTテレビ「テレビタミン」
FMKラジオ「球磨川ストーリー」など。